小林002

【提言002

<不動産活用時代における建築規制の抜本改革-自己責任を受け入れつつ規制緩和-> 

・既存建築を有効活用する時代に向けて、建築規制の抜本改革を提案したい。建築規制は、集団規定(容積率や建蔽率、立地規制等)と消防に関する項目だけを定める。一方の単体規定(構造・内装・設備等)は、発注者や利用者が自ら要求水準を定めて実現するものとし、原則として行政が関与しないとする。これは、発注者や利用者が自己責任を受け入れる覚悟がないと実現できない改革であるが、既存建築を最大限に生かす不動産活用時代に必要な規制緩和である。

日本の建築規制は細かく厳しい

日本の建築規制は精緻である。建築基準法(以下、政令や告示を含む)は改正が繰り返され、すぐには理解できないほど複雑に規制の網が張り巡らされている。それでも、建物の新築時であれば、建築士が力を発揮する。法律や条例をチェックし、さらに自治体や消防、指定確認検査機関等と協議して、法を遵守して建物を造る。その結果、建物の安全性は向上し、火災による延焼や地震被害は大きく減った。その成果は、大いに評価すべきだろう。

しかし、既存建築を活用する際は、どうだろうか。すでに長年そこにある建物である。どう利用するかは、所有者等の創意工夫に任せることも必要だ。とりわけ現行法では、建築用途が変更されると最新の規制への適合が求められ、古い建物の活用の支障になることが多い。例えば、空き家をグループホームに転用するような場合である。

そのような不動産活用時代には、現在のような精緻な建築規制は必要だろうか。どこまで規制緩和が可能か、それを検討すべき時である。

なぜ、規制強化が積み重ねられてきたのか

ところで、なぜ、このような精緻な建築規制になったのだろうか。その理由は、問題が生じるたびに、建築基準法や消防法その他の改正が求められ、規制強化が積み重ねられてきたからだ。例えば、地震被害が生じれば、耐震性を強化する改正が行われる。火災による死傷者が生じれば防火や避難性能が強化され、さらにシックハウスが問題なれば、住宅の内装制限が強化された。また、耐震偽装問題の発生によりチェック体制が強化されたことは記憶に新しい。その繰り返しが、今日の建築規制の姿だ。

その前提には、国民の安全と健康を守るのは、国や行政の役割だという認識がある。その結果、何か問題が起きると行政や法の不備が指摘される。しかし、これは裏を返せば、建築専門家が信用できないということを意味する。信用がないから、行政がチェックせよということだろう。

さて、この責任論でのプレーヤーは、行政、建築士、施工会社である。しかし、何か抜けていないだろうか。そう...建築の発注者と利用者である。

建築規制を強化し、それを行政(民間指定確認検査機関を含む)がしっかりとチェックする。それで恩恵を得るのは誰だろうか。それは、発注者と利用者である。実は、別の道としては、発注者が専門家をやとって自己責任で建物の安全をチェックする方法がある。さらに、利用者は危険な建物を利用しない、あるいは利用するときは自己責任とする道もある。

日本は、その道はとらなかった。むしろ、法規制を強化して行政がチェックする道を選んだ。つまり、大きな政府を指向したのである。

 

民間指定確認検査機関への開放

ところが、大きな政府を指向しながら、行政改革で人員が制限された。これでは、建築規制の強化で増える仕事に行政は対応できない。そこで、建築確認申請のチェックを民間に開放する必要が生じた。1999年、建築基準法が改正され、そのチェックを民間機関が担う制度が発足した。

このとき、建築規制の性能規定化が一部導入されている。つまり、建築の設計内容を細かく仕様で規定するのではなく、要求性能さえ満たしていれば、建築設計は創意工夫に委ねようとするものである。それは、望ましい規制緩和だ。しかし、所詮、行政(民間確認機関)、建築士、施工会社の世界における緩和だ。

本当の意味での規制緩和とは、建築の安全性等の水準を国が決めるのではなく、それを建築の発注者や利用者が定めるというものだ。建築士と施工会社は、発注者等が求める性能水準に応じて建物を建てたり改修したりする。もちろん、その結果生じる責任も発注者等が負うことになる。

 

現在の建築規制は最低基準だろうか

ここで反論があるだろう。それは、国は健康で文化的な生活を守る義務があるという主張であり、現在の建築基準法はその最低基準を定めたものである(規制緩和はできない)という主張だ。では、質問しよう。既存不適格建築物をどう説明するのかと。

既存不適格建築物とは、昔の法律には合致しているが、その後に規制強化された現在の法律には合致していない建物を指す。そして、既存不適格建築物は、そのまま利用することができ、何十年という長期にわたり存在している。もし、現行基準が憲法の定める最低基準であるならば、既存不適格建築物は存在してはいけないことになる。

もちろん、実務上の経過措置でヤムをえないという説明は可能だ。しかし、真に問われるべきは、「本当に現行法が最低基準なのか否か」である。最低基準ではないから、既存不適格の存在に寛容なのではないのか、と。

例えば、地震に対する基準をみてみよう。1971年以前の建築確認によるものは旧々耐震基準、1981年以前は旧耐震基準と呼ぶ。それ以後は、新耐震基準である。つまり、旧耐震以前の建物が基準ギリギリで建てられていれば、それらは既存不適格である。もちろん、現存しており使われている。

近年、東日本、熊本と相次ぐ大震災で、旧耐震以前のマンションが多く被災し、そして、取り壊された。しかし、死者はゼロであった。国の最低限の責務は、財産としての建物保全だろうか。そうではなく人命保護であると理解している。つまり、旧耐震でも最低基準としては十分に機能していたのである。

本来、財産としての建物保全は、発注者や所有者の選択のはずである。地震に強い建物にしたければ、そのように発注すればよい。その逆もしかりである。

集団規定は公的な規制が必要

では、発注者等の選択と自己責任を徹底すればよいのだろうか。そうではない。集団規定と呼ばれるものは、発注者等がむしろ違反しがちな分野だ。例えば、容積率制限があるが、発注者は法定容積率一杯に建てるのは当然で、できれば、越えたいと考える傾向がある。利益が高まるからだ。また、住宅地に不向きな建物用途は、規制がなければ、建ててしまうことも生じるだろう。

経済学では、これらは外部不経済と呼ばれる。つまり、取引価格には反映しないが、周囲に悪影響を与える項目である。このような項目は、行政等がチェックしなければ発注者の建て得になってしまう。

さらに、もう一つ、チェックが必要な項目がある。それは、消防関係だ。火災が起きれば、消防士が消火と救助にあたる。その消防士からみて、活動困難な建物は困る。それは、消防士の人命を守るために必要なことである。

自己責任とは利用者に厳しい時代のこと

筆者は、集団規定と消防関係の他は、すべて自己責任にすべきと考えている。

例えば。耐震性も自己責任でよい。そのためには、利用者が分かるように、地震に対する建物の強さを表示することが必要だ。そうすれば、危険な建物は、市場の中で自然に淘汰されていくだろう。逆に、危険を承知で利用するのも、自己責任で可能とすればよい。

揺れを感じたら逃げる道筋を確保しておけば、そのような建物は安い家賃で使用できるはずだ。それも一つの選択である。極論を言えば、防災意識が低いまま住み、そして死傷に至ったとしても、それは自己責任と割り切る。もし、大家さんが危険性の周知を怠っていた場合は、大家相手に訴訟を起こせばよい、とするのである。

つまり、建築規制の緩和とは、実は、発注者・所有者・利用者にとって、極めて厳しい自己責任の時代の始まりを意味する。現在のように、建築規制を強化し行政が守ってくれるほうが、はるかに楽で安心だろう。しかし、いつまでも行政に頼る意識では規制緩和はできない。

既存建築の活用において規制緩和

もちろん、いきなり単体規定を任意とするのは大胆な改革である。そこまで自己責任を受け入れる機運が熟しているとは考えられない。そこで、第一歩は、既存建築の活用について規制緩和するのはどうだろうか。

すでに長期間存在している建物が対象である。周囲に迷惑をかけなければ(集団規定に影響がなければ)単体規程は現状水準でよしとし、自己責任で活用するのである。これならば、十分に実現可能であると考えている。

ところで昨年、建築基準法が改正された(今年施行)。そこでは、建物の用途変更について、従来は100㎡まで建築確認申請が不要であったものが、200㎡まで不要と緩和された。この場合の確認申請不要とは、行政(指定確認検査機関)はチェックしないので、自己責任で法規制を守って下さいという意味である。規制緩和への一歩であり高く評価している。

しかし、建築基準そのものが緩和されたわけではない点に注意が必要だ。このため、自治体が空き家活用に補助金を出そうとすると難しい問題が生じる。それは、現行の厳しい規制を満たさないと合法にならないため、違法建築に補助金を出すことになってしまうからだ。やはり、単体規定は任意とするのがよい。そうすれば、合法性うんぬんの問題はなくなる。

そのような規制緩和が実現すれば、既存建築の活用にふさわしい自己責任時代の一歩となる。ちょうど、今、その時代の転換点にあると考える次第である。

『住民行政の窓』より転載

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