村林001

【論評】
<平成の都市開発を振り返る(その1)>

 

・「令和」に改元されましたが、何かが本質的に変わるわけではありません。 「平成」はバブル&バブル崩壊、消費税増税、リーマンショック等の経済面での低迷、政権交代による混乱、多くの大災害等とともに不動産分野では大規模都市開発、都市再生、不動産証券化、官民ファンド、関連法の改正等の激動の時代でした。停滞した失われた時代とも言われましたが、一方で、各分野で優れた成果を上げてきましたし、都市開発・不動産事業はある意味で着々と進められてきましたので、後ろ向きに捉えるべきではないと思います。 ・この機に平成を振り返り、問い直し、新たな気持ちで取り組む良い契機だと思います。 ・住宅・都市・国土を扱う我々は常に過去・将来100年を意識していますが、本稿ではまずは「平成」の当初10年間程度での都市開発分野で話題となった事象を振り返り、当時の背景と現在への反映等を概観してみます。

 

■バブルからのスタート
まずはスタートの平成元年・1989年ですが、この年は株価がピークとなり、中曽根内閣以来の民活政策の下で不動産バブル景気の頂点でした。
バブルの一因として1985年に国土庁によって発表された「首都改造計画」での過大なオフィス需要推計値が挙げられていますが、実は過大な推計値ではなく、その後、その推計値は実現しています。私も当時、同様の方法で推計しましたが同様の結果でしたので、一体何を問題にしているのか不可思議でしたが、いつの間にか地価抑制論が政治的な問題となり、冷や水をかける政策が打たれました。確かに荒っぽい地上げや地価の急騰は問題ですが、本来の問題は実需以上に金融機関が貸し込んだことにあります。誰が見ても需要が無いような地域に立地する電話局跡地やとりあえずまとめられた土地等の土地ありきの開発にまで融資されました。マスコミは常に開発性悪論であり、地価高騰ですら社会悪ですので、正論が通りませんでした。その結果、政府も何故か世論?に配慮し、地価高騰を悪として冷や水をかけて、その後の失った10年を作り出しました。

また、同年に三菱地所がNYのロックエラーセンターを買収(RGI:ロックフェラーグループの株式を2,200億円で取得)して、日米で大きな話題となりました。ロックフェラーはロスチャイルドと双璧を成す米国の財閥で、あらゆる産業に直接深く関わっていましたが不動産業だけは関連子会社に任せていたようです。その後の不動産不況でロックフェラーセンター等の主要物件を処分せざるを得なくなり、96年には1500億円強の特別損失を計上し、大失敗と喧伝されました。しかし、その後も地所はRGIを保有し続けており、保有資産額が約4600億円(2018.6時点)という地所の海外事業の中核として位置付けられています。最近でも米国での大規模な物流施設開発を行っています。マスコミは当初の米国サイドからの米国の魂を買われたとの非難やRGIの当時の破綻だけを面白く報じたものであり、その実態に関心はなく、大半の読者は知らせずに部分的な報道に終始しました。もちろん、一企業の動向を継続的に追い続けて、報道する必要は無いですが、不動産バブルを揶揄する視点だけでとらえるのは大きな問題と言えるでしょう。

■新たな開発資金としてのNTT株式売却益
円高不況による景気回復と財政難を背景にして、1986年から1988年の3年間でNTT株式を売却した資金、約10兆円という巨額の貸付事業が開始されました。ピークはバブル期という資金的には余裕があった時期であり、また、大半が償還期に同額の補助金が交付されるBタイプであったこともあり、本来の国債償還ではなく自治体等による公共事業、都市開発事業等に大半が使われたことが問題視されました。
Aタイプ(収益回収型)は民間都市開発推進機構を通じて、リゾート開発のインフラ整備、シーガイア、ハウステンボス、かずさアカデミアパーク等に貸付けられました。開発資金が潤沢であることは重要ですが、個々の事業の成否を見極めずに貸付けたことそして事実上の補助金であったことがせっかくの膨大な資金の多くが不良債権になってしまいました。その後、ハードや計画が優れていたものは不良債権化した後に再生されはしましたので一概に無駄とは言えませんがそれでも当時の資金の使い方としてはもったいないものでした。

■都心部開発の呪縛からの解放
一方で、1988年に制定された多極分散型国土形成促進法(多極法)による業務核都市構想や東京都副都心構想により需要が高い都心部では均衡ある開発の下、長い間、開発が抑制され続けました。業務機能分散は法人税緩和等の施策がない中で実現が困難でしたが、埼玉新都心は国の機関移転を軸に、横浜は住宅機能の導入も図りつつ、各種優遇措置で一部の業務機能が徐々に立地しました。その間都心部では膨大な需要があるにもかかわらず塩漬けにされました。
都心部がその膨大な需要を顕在化させるには2000年以降の国や東京都における各種の法的措置や計画を待つことになります。バブル期はオフィス需要の過大な推計と揶揄されましたが本来は十分な需要があったにもかかわらず、抑制されてしまいました。昨今の膨大な再開発、建て替えの状況を見るにつけても当時から積極的に都心部を位置付けて、開発を誘導しても良かったようにも思えますが、実はその間に地権者との調整や計画策定等に時間を費やしていましたのである意味準備期間とすれば強ち無駄な潜伏時間ではなかったかもしれません。
また、不動産業界にとって大きな動きとして「不動産証券化」があります。今や不動産関係者にとって必死の知見ですが、当時は旧大蔵省との調整がやっかいなものでした。まずは念平7年(1995年)に不動産特定共同事業法が施行され、平成10年(1998年)にはSPC法(特定目的会社による特定資産の流動化に関する法律)が施行されて、平成13年(2001)年にはJ-REITが上場開設されました。この後、本格化していくことになり、今や統廃合も繰り返しつつ63銘柄にまで増えました。地方都市での展開はまだまだ、これからですが、需要の強弱もさることながら、地方金融機関、自治体、地元デべ等に不動産証券化に関する知見が無いことも要因です。今後、東京で活躍した専門家のUJIターン等により少しづつ普及することを期待しています。

■百貨店の凋落とまちづくり三法での取り組み
都市開発にとって導入機能は重要な要素です。オフィスや住宅、商業、宿泊、物流等です。ここでは1991年に最盛期を迎えた百貨店を見てみます。この年に9.7兆円の売り上げだったものが、2018年には5.9兆円と約40%減となってしまいました。一方でコンビニ業界は同じく3.1兆円が11兆円であり、百貨店のピークを超えています。また、百貨店での定番であったアパレルも青山、AOKI、コナカ等が台頭するなど、個々の小売り業態が変化し、力を付けたため従来のいろいろな商品を集めただけの業態では生き残れなくなりました。かつては地方都市の文化・経済の核的な位置づけでもありましたが、今や大半が閉鎖してしまいました。以前、東北地方の有力百貨店の再生のためのDIPファイナンスを検討した際は寂しいものでした。しかし、都心部の旗艦店はまだ健在であり、新たな社会ニーズに応えた新たな役割を果たす潜在力があると思っています。
また、規制緩和の下、新たな枠組みとしての「まちづくり三法」が平成10~12年に制定されました。その後、これに基づいて各種の計画が策定されましたが、残念ながら中心市街地の多くは衰退の一途を辿ることになりました。その後、コンパクトシティを目指した諸政策と連動した取り組みが進められましたが、その経緯は次回以降に記載することにします。

□「大規模小売店舗立地法」 (大店立地法) 大規模店舗の出店に際して周辺の生活環境保持に配慮を求める  □「中心市街地における市街地の整備改善と商業等の活性化の一体的推進に関する法律」(中心市街地活性化法) 空洞化の進行する中心市街地の活性化を図る □「改正都市計画法」 まちづくりの観点から大規模店舗の立地規制などを可能にする

■土地・都市・国土関連の法制度制定・改正
平成元年にはバブル対策として「土地基本法」が制定されました、これは土地について国、自治体、国民の基本的認識を確立するためのものであり、その前段としてまとめられた「土地基本法の考え方について」(1988年12月 土地基本法に関する懇談会)は至極真っ当な議論としてまとめられました。これに基づいて、各種施策が講じられましたが、制定後はバブル崩壊により、都市開発、土地活用が極端に低下し、むしろ、空き地の増大に対する施策、すなわち、利活用の推進が求められるような状況でした。資金の抑制が無く、そのまま、開発圧力が続けば、この趣旨に則り、計画的で公共的視点での誘導が行われたかもしれませんでした。投機的取引の側面に眼が行き過ぎてしまい、開発自体の「誘導」というよりは「抑制す」になってしまったことが残念でした。一方で、大都市法改正(都心居住を推進する)、沿道整備法の制定、密集法の制定等、そして市街地再開発法の改正等は積極的に行われました。例えば、一体的施行マニュアル、再開発地区計画制度の創設・拡充、施工区域要件の緩和、立体道路制度の創設等ですが、開発の低迷期において、その後、次々と竣工した都心部等の市街地再開発事業実施に向けての準備となりました。国土計画面での地方活性化関連の法制度も多く生まれました。多機能交流拠点整備事業、地方拠点法等ですが、結果的には地方の衰退は止められないまま、地方創生と名前を変えて、続いています。
1992年の生産緑地法改正も大きな話題でした。市街地内農地の時限的優遇策を定めましたが、その時限である30年後が平成34年ということで一昨年話題になり、宅地供給が増大し土地市場が混乱するとまで言われましたが、結局、当初予想されたように事実上、先延ばしとなりました。

■日本が災害の国であることを再認識した時代
平成は災害の時代でもありました。90年代だけでも下記のような災害があり、中でも阪神淡路大震災は全く想定外の地域での地震でもあり、日本中が大騒ぎとなりました。
私は、まさに地震発生直後にドイツのハンブルグに出張中のホテルのロビーのTVニュースで知りました。ドイツ人達が私達の方に来て、日本が燃えていると叫んでいたことを思い出します。本件については国・自治体はもとより、多くの専門家や事業者そしてボランティア等がそれぞれの立場で出来ることをしてきましたし、その結果、この想定外の未曽有の大災害の経験から多くの事を学び、制度の整備等も進みました。

その後も多くの災害に見舞われましたが、2011年の東日本大震災等も含めた震災については改めて、次号以降に触れたいと思います。

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